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海外「あの人たちは、ただ火曜日に出勤しただけだった」9.11の朝ニューヨークにいた人が、25年目に願うこと

海外「あの人たちは、ただ火曜日に出勤しただけだった」9.11の朝ニューヨークにいた人が、25年目に願うこと 文化・習慣

2001年9月11日の朝、アメリカで同時多発テロが起きた。あれから25年。海外の掲示板で「あの日を生きていた人たち、どんなことを覚えてる?」と問いかけるスレッドが立ち、教室、マンハッタンの路上、遠く離れた国の居間から、それぞれの記憶が寄せられた。ずる休みだと喜んだ子ども、何日も飛行機が消えた空、つながらない電話。普通の人たちが過ごしたあの一日を、ひとつずつ読んでいきたい。

元スレッド:r/AskRedditより

海外の反応

1. 名無しのReddit住民
当時5歳で、幼稚園に通ってた。あの朝は母が起こしに来なくて、「今日は自分の部屋にいなさい。テレビはつけちゃだめよ」とだけ言われたんだ。何も知らないまま、ずる休みの日だと思ってバービー人形で遊んでた。母がどうしてあんなことを言ったのか、分かったのはずっとあとになってから。

2. 名無しのReddit住民(>>1への返信)
子どもの記憶ってそんな感じだよね。小学5年で、図書室へ移動してる途中、先生や補助の職員たちが泣きながら廊下を走っていくのを見た。そのまま子どもだけで1時間以上図書室に置いておかれて、そのあと全校が食堂に集められて「今日はもう下校です」。全員が歓声を上げたよ。校長先生がそれを静かにさせて、「とてもひどいことが起きました。お家の人は今、みんなのそばにいたいはずです」って。家に帰って、生まれて初めて自分でニュースをつけた。

3. 名無しのReddit住民
いちばん焼きついてるのはこれ。33丁目とパーク街で地下鉄を出たら、エンパイア・ステート・ビルのすぐそばを戦闘機が2機飛んでた。見慣れた街の上を軍用機が飛んでるのを見上げたあの瞬間は、本当に怖かった。

※ 33丁目とパーク街はマンハッタン中部の交差点で、エンパイア・ステート・ビルはすぐそば。世界貿易センターからは数キロ北にあたる。

4. 名無しのReddit住民(>>3への返信)
ニューヨークじゃない街の会社にいたけど、空が怖かったのは同じ。最初に同僚の奥さんから「飛行機が世界貿易センターに突っ込んだ」って電話が来たときは、みんな小型機の操縦ミスか何かだろうって肩をすくめてた。そのあと奥さんがまた電話してきて、4つ離れた席まで「もう1機が別のタワーに!」って叫び声が聞こえたんだ。その日の午前中、町でいちばん高いビルの23階で会議があって、出席者全員、ずっと窓の外に飛行機がいないか見張ってた。民間機がもう全部地上に降ろされてたなんて、誰も知らなかったよ。

5. 名無しのReddit住民
タワーから20ブロックほど北にいて、北棟が崩れたとき、ちょうどミシガンの母と固定電話で話してた。窓から見えてたから、「崩れてる!」って叫ぶことしかできなかった。母は私がどれくらい近くにいるのか分からなくて、ビルがこっちに倒れてくると思ったみたい。電話口で私の名前を何度も何度も叫んで、無事なのかって聞き続けてた。母はカトリック系の学校で5年生の担任をしてて、そのときは迎えに来た親と子どもが出入りする事務室にいた。廊下の先まで叫び声が聞こえて、何人も事務室に駆けつけてきたらしい。あとになって、その場にいた8年生(日本の中2くらい)の女の子が母にこう話したそうだ。「先生のあの叫び声がずっと忘れられない。あれで9.11が本当は何だったのか分かった。恐怖と、悲しみと、どうすることもできない無力感だった」って。

※ 世界貿易センター(WTC)の「ツインタワー」と呼ばれた2棟の超高層ビル。北棟、南棟の順に旅客機が突入し、崩壊は南棟が先、北棟があとだった。

6. 名無しのReddit住民
いくつもの航路が交差する真下に住んでて、普段はいつ見上げてもどこかに飛行機がいる空なんだ。それが何日も、1機も飛ばなくなった。不気味なくらい空っぽで、しんと静まり返った空。あの静けさは今でもときどき思い出す。

7. 名無しのReddit住民(>>6への返信)
あの空はうちも覚えてる。当時、妻は妊娠7か月で、その週の日曜の朝に飲酒運転の車に横から突っ込まれたばかりだった。念のため火曜に産婦人科で診てもらうことになってて、家で支度しながら1機目のニュースを見て、2機目は病院の待合室のテレビで見た。妻もお腹の息子も無事だったよ。世界でも指折りの忙しい空港がある街に住んでたのに、帰りの車から見た空には飛行機が1機もいなかった。あの日のことを考えると、今でも込み上げてくるものがある。

8. 名無しのReddit住民
トイレから戻ったら、誰かが私の連絡帳に「宿題なし」って書いてくれてた。小学5年の私は、その字の汚さに本気で腹を立てた。字にはやたらうるさい子だったから。家に帰ってからは、ずっと電話の横に座ってた。母がニューヨークに行ってたんだ。国じゅうの人が一斉に電話をかけてるなんて知らなくて、台所のコード付きの電話と居間のテレビを行ったり来たりしながら、でっかい飴玉をなめつつ何度も母に電話をかけ直した。分かってたのは、とんでもなく怖いことが起きてて、母が遠くにいるってことだけ。結局、母はレンタカーを借りて、ボストン近郊の家まで運転して帰ってきた。

9. 名無しのReddit住民
娘がニューヨークのテレビ局、ABCの報道部門で働いてて、あの朝「今すぐテレビをつけて」って電話してきた。つけた瞬間、2機目がタワーに突っ込むのが映った。私は受話器に向かって「すぐそこから逃げなさい!」って叫んでた。娘のいた場所は危なくなかったんだけど、あの街にいるってだけで、体が凍りつくほど怖かった。

10. 名無しのReddit住民(>>9への返信)
こっちは逆に、家族を心配する子どもの側だった。高校に入ったばかりの年で、美術の授業中にテレビが運び込まれてきて、先生は「今の気持ちを絵に描きなさい」って言った。でも、父があの日の飛行機のどれかに乗る予定だって聞いてたんだ。母に電話しようと教室を出かけたら先生に座れと言われて、「ほっといてくれ!」って怒鳴り返した。そのまま校長室に連れていかれて、事情を話したら電話を使わせてもらえた。父は便を変えてて無事だった。美術室に戻って、涙をひとつこぼしてる目を描いたよ。

11. 名無しのReddit住民
あの日は、ニューヨーク行きの飛行機に乗るはずだった。誕生日を向こうで祝うつもりで、離陸の3時間くらい前、コーヒーを飲みながらスーツケースのファスナーを閉めてたところ。つけっぱなしにしてた後ろのテレビから、あのニュースが流れてきた。もちろん、その便には乗れなかった。

12. 名無しのReddit住民
アメリカ人じゃなくて、当時はバルバドスに住んでた。学校の金属加工の授業で、先生がなかなか来なかったんだけど、いきなりドアを開けて飛び込んできて、机の荷物をつかんで「アメリカのツインタワーが爆破された」とだけ言ってまた出ていった。たぶん職員室に行ったんだと思う。残された生徒たちは顔を見合わせて「ツインタワーって何?」。その日はそれっきり何の話もなくて、家に帰ったら祖母がニュースをつけてて、みんなで立ったまま画面を見てた。あの日について覚えてるのはそれだけ。

※ バルバドスはカリブ海の東端にある島国。9月のニューヨークとは時差がなく、同じ時間帯の出来事だった。

13. 名無しのReddit住民(>>12への返信)
国の外から見てた組。こっちは12歳で、中等学校に上がったばかりだった。学校ではほとんど何事もない一日だったのに、家に帰ったら母が口をぽかんと開けてテレビを見つめてて、そこでビルが崩れていく映像を初めて見た。思えば、あの一日がその後の25年を決めてしまったみたいで、不思議な気持ちになる。あの映像を見たときの衝撃は、今でもうまく言葉にならない。

14. 名無しのReddit住民
ハワイにいて、朝4時にトイレで目が覚めた。なんとなくテレビをつけたら……。まだ真っ暗な部屋で、寝ぼけた頭のまま、何が起きてるのか飲み込めずにずっと画面を見てた。あの感覚は今でも体が覚えてる。

※ ハワイはニューヨークより6時間遅い。ハワイの朝4時は、ニューヨークでは午前10時にあたる。

15. 名無しのReddit住民
夜勤明けで、CNNを消音で流しながら、ソファでギターをいじってた。ふと顔を上げたら、ビルから煙が出てる。セスナか何かのパイロットがとんでもないミスをしたんだと思って、「屋上に取り残された人をヘリで降ろすのは時間がかかりそうだな」なんて考えてた。そのまま寝て、午後に起きたら、世界がまるで別物になってた。

16. 名無しのReddit住民(>>15への返信)
寝てて出遅れたのは自分も同じ。大学生で、寝坊なんて人生で3回くらいしかしたことないのに、よりによってあの日に寝過ごした。慌てて授業に行ったら全部休講になってて、「なんだよこれ」と思ったところで何が起きてるのか知った。午後は1時から6時まで、アメリカのど真ん中の町でバイトに入ってた。本当に長くて、しんどい一日だったよ。

17. 名無しのReddit住民
小学1年だった。誰かが教室に来て先生とこそこそ話したと思ったら、その日の授業はそこでおしまい。キャスター付きの台に載ったテレビが運び込まれて、残りの時間はずっとそれを見てた。クラスのほぼ全員の親が迎えに来て、残ったのは自分ともう1人だけ。当時は「みんな大げさだな」くらいに思ってたし、放課後ベビーシッターの家で、飛行機がビルにぶつかるなんて「すげえ」と思ってたくらい何も分かってなかった。大人になってから、93便がうちの真上を飛んで、1時間ほど離れた場所に墜落していたと知った。

※ ユナイテッド航空93便。同じ朝ハイジャックされた4機のうちの1機で、乗客たちが抵抗した末、ペンシルベニア州シャンクスビル近郊の野原に墜落した。

18. 名無しのReddit住民
普段は曇りがちなのに、あの日は本当にきれいに晴れてて、急な坂道を下りながら街並みがよく見えたのを覚えてる。会社で同僚が「飛行機が世界貿易センターに突っ込んだ」と言いに来て、パイロットが心臓発作でも起こしたのかと聞いたら「いや、テロらしい」。1機突っ込むたびに夫から「今すぐ会社を出ろ」って電話があった。ペンタゴンにも突っ込んだと聞いて、直属の上司でもある社長のところへ行き、「この国が攻撃を受けてるんです。帰ります」と言って会社を出た。うちはニュージャージー北部で、家に着いてから夫と2人で、煙が見える場所まで行った。夜7時半ごろ車で町を通ったら、通勤客用の駐車場がまだ車で埋まったままで、あの不気味さは忘れられない。25年経った今も、この日は毎年きちんと追悼してる。本当の英雄は、人を助けるためにビルへ駆け込んでいった人たちだ。

※ ペンタゴンは米国防総省の本庁舎で、ワシントンD.C.対岸のバージニア州アーリントンにある。同じ朝、ここにも旅客機が突入した。

※ ニュージャージー州北部はマンハッタンへの通勤圏。駐車場に車を停め、そこから電車やバスで通う人が多い。

19. 名無しのReddit住民
コピー屋のキンコーズで夜勤してた。朝番のやつが時間になっても来なくて、眠いのを我慢して電話したら「テレビ見てる」とだけ言って切られた。は?ってなって電話をかけ直したら、今度は「休憩室のテレビを表に出せ」と言ってまた切られた。言われたとおりテレビをカウンターに置いて、客が来ても見られるようにして、自分も見た。それから店の電話で、ニューヨークにいる大切な人たちに片っ端から電話した。長距離電話の料金くらい大目に見てもらえるだろうと思って。ほとんど話し中だったけどね。誰が交代に来てくれて帰れたのかは覚えてない。覚えてるのは、昼前にはもうバーにいて、常連たちとテレビを見ながら、ビールをチェイサーにウイスキーを飲んでたこと。怖くて、混乱してて、腹が立ってた。

20. 名無しのReddit住民(>>19への返信)
あの話し中の音は本当にきつかった。ニューヨーク近郊に住んでて、あの日友人を亡くした。北棟のカンター・フィッツジェラルドで働いてる友人がいたし、WTCのすぐ隣のビルに勤めてる家族もいたのに、朝は携帯がほとんど使いものにならなくて、誰の無事も確かめられない。不安とパニックがごちゃ混ぜだった。そのうち電話が通じるようになって、夜には不安がはっきりした落ち込みに変わって、それが何か月も続いた。あの日亡くなったすべての人が、安らかでありますように。

※ カンター・フィッツジェラルドは北棟の上層階にオフィスを構えていた金融会社。多くの社員が犠牲になった。

21. 名無しのReddit住民
あれ以来、あんな連帯感は見たことがない。どこを見ても星条旗があって、どこを見ても葬式があった。ロングアイランドの南岸に住んでて、近所の人も、友人も、職場の同僚も亡くした。がれきの現場でバケツリレーのボランティアに入った友人たちは、そこで見たつらいものの話をしてくれた。忘れないよ。

※ ロングアイランドはマンハッタンの東に延びる細長い島で、南岸の町にもマンハッタンへ通勤する人が多い。バケツリレーは、崩落現場でがれきをバケツに入れ、手渡しで運び出した人たちの列のこと。

22. 名無しのReddit住民(>>21への返信)
当日はとにかく異様で、重苦しかった。でもその後の数週間、数か月は、国が本当にひとつにまとまってた気がする。アメリカ人であることをみんなが誇りに思って、お互いを支え合ってた。今とは空気がまるで違ったよ。あんな光景を見たのは、人生であの一度きりだ。

23. 名無しのReddit住民
バーモント州の大学にいた。2機目のニュースで授業は休講になって、寮に戻ったらみんな自分の部屋でテレビを見てた。同じ階のやつは、ニューヨークで働いてる父親と連絡がつかなくて、そのまま車でニュージャージーの実家に帰っていった(父親は無事だったけど、友達のお父さんは亡くなった)。数日後のキャンパスは静かで、誰も何を言えばいいか分からなかった。それで大学のいくつかの部署と一緒に、学内のあちこちにノートを置いて、不安や思ってること、ニューヨークの警察や消防、赤十字へのメッセージを自由に書いてもらったんだ。最後は全部箱に詰めて、ニューヨークの赤十字に送った。ちゃんと届いたのかは今も分からない。でも、みんなが気持ちを置いていける場所にはなってたと思う。

24. 名無しのReddit住民
ニューヨーク都市圏の人間なら、誰でもあの日の話をひとつは持ってる。普段は絶対に遅刻しない親が、あの朝に限って遅れた、なんて話がいくつもあるんだ。近所のお父さんは昼ごはんを家に忘れて取りに戻ったせいで、ホーボーケンからいつも乗るフェリーに乗り遅れた。本当ならダウンタウンにいるはずの時間で、1機目が突っ込んだときはまだ川を渡ってる途中だった。別の友達のお父さんはニューヨーク市警の特殊部隊にいて、実際にタワーの中へ上がっていった。家族は4日間まったく連絡が取れなくて、ようやく玄関から入ってきたときは、ほこりまみれのままだったそうだ。

※ ホーボーケンはハドソン川を挟んでマンハッタンの対岸にあるニュージャージー州の街。フェリーで川を渡って通勤する人が多い。

25. 名無しのReddit住民
生後8か月だったから、あの日のことは何ひとつ覚えてない。知ってるのは、両親があとから話してくれたことだけ。生まれてからずっと北バージニアに住んでて、父はペンタゴンのあるアーリントンの出身だから、両親にとっては本当に身近な場所で起きたことだったらしい。だから、こういうスレで当時の話を読めるのはありがたい。

26. 名無しのReddit住民
あの日も、その前の日も、次の日もニューヨークにいた人間として、聞かれたら誰にでも書こうと思ってることがある。亡くなった人たち、とくにオフィスで働いてた人やビルを支えてたスタッフのことを覚えておいてほしい。あの人たちは、ただ火曜日に出勤しただけだった。あなたが普段そうしてるのと同じように。みんなに生活があって、子どもや配偶者がいて、住宅ローンを抱えて、夢があった。いつもどおり仕事に行ったら、とんでもないことが降りかかってきたんだ。あの朝どう動いたかはショックと偶然でしかなくて、すぐに下へ逃げなかったからって、誰も責められることじゃない。あなたが同じ場所にいても同じことをしてたはずだし、助かったかどうかも分からない。今年はあの人たちひとりひとりのことが詳しく報じられてて、ずいぶん久しぶりに耳にする話もある。だから、あの人たちのことを話すときは、どうか優しくしてほしい。誰かがあの人たちを愛してたんだ。自分の親やいとこのことを話してもらいたいのと同じように、話してあげてほしい。

27. 名無しのReddit住民(>>26への返信)
それで思い出した生存者の話がある。飛行機が突っ込んだフロアで働いてた男の人で、あの日は朝8時に出社して、同僚の女性が来るなりカバンとタバコを持って、下へ一服しに降りていった。その同僚に「そんなんじゃ、がんで誰より早死にするよ」ってからかわれて、近くにいた何人かも笑って乗っかった。どこの職場にもある、いつもの軽口だ。彼は「じゃあ3分間の幸せを楽しんでくるよ」と言い返して降りていった。下でタバコを吸ってたときに、さっきまでいたオフィスに飛行機が突っ込むのを見たそうだ。のちに彼は「タバコに命を救われたから、一生やめない」と話してた。でもその口ぶりは、あのとき誰か一人でもついてきてくれてたら、って言ってるようにしか聞こえなかった。

28. 名無しのReddit住民
うちはいつも6時半に親が起こしに来るのに、その日はもっと早く起こされて、居間に入って1分くらいで2機目が突っ込んだ。小学6年だった。授業が始まる前にはもう両方のタワーが崩れてて、その日は一日中、学校でニュースの中継を見てるだけだった。変な話、翌年のほうがよく覚えてる。中学ではどの教室でも当時の映像と最新の報道が流れてて、あの日はどの授業も歴史の授業になってた。怖かった記憶はないんだ。国の反対側に住んでたから、正直、別の惑星の出来事みたいだった。ひどいことなのは分かってたけど、それがどれほどひどいのかまでは実感できてなかった。

29. 名無しのReddit住民(>>28への返信)
住んでた場所や年齢で、実感が全然違ったのは分かる。うまく言葉にできないけど、それでもあの日を境に、それまで長いこと続いてきたアメリカという国のかたちは終わってしまったんだと思う。覚えてない若い人に伝えるなら、コロナで世の中が変わったこと全部が、たった1日で起きたと想像してみてほしい。

30. 名無しのReddit住民
母が小学校まで迎えに来て、そのまま母の職場に連れていかれた。町の反対側へ行くには橋を渡るんだけど、橋のいちばん高いところから、燃えているツインタワーが実際に見えた。帰りに同じ橋を渡ったときには、タワーはもうなかった。あの橋を車で渡るたびに、あそこに何も見えないことに今でも慣れない。

まとめ

あの日の記憶は、いた場所と年齢によって驚くほど違っていた。ずる休みだと思って人形で遊んでいた子どもや、早帰りに歓声を上げた小学生は、大人になってからその意味を知った。マンハッタンで電話越しに叫んだ人、話し中の電話を何度もかけ直した人、何日も飛行機の消えた空を見上げた人、そして国の反対側で「別の惑星の出来事」のように感じていた人。温度はまるで違うのに、どの記憶も同じ一日につながっている。なかでも「あの人たちは、ただ火曜日に出勤しただけだった」「話すときは、どうか優しくしてほしい」という言葉は、25年という節目に読むと重く響く。日本では夜10時前後のことで、ニュース番組であの映像を見た夜を覚えている人も多いのではないだろうか。皆さんは、あの日のことを覚えていますか?

文化・習慣
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コメント

  1. Reddit名無しさん より:

    当時は驚いたしあまり良い気分ではなかったが、大戦中やその後も日本や他の国々でも多くの民間人を殺害しまくっていたのが米国なのでいずれこういった事は起きるであろうとは思っていた
    小学生の頃の友人が死んだのを知ったのはしばらく後の事だった(正確には近くに居て交通事故に巻き込まれた)