「昔は大変だったのよ」と祖父母が口にする思い出話。聞き流していたけれど、よく考えるとそれ、ただの苦労話じゃなくて「当時の人が当たり前として受け入れていた本物の地獄」だったりする。海外掲示板で「親や祖父母が愚痴っぽく言うけど、実は当時の日常の地獄だったこと」が募られていた。読んでいると、笑える話と胸が詰まる話が交互にやってきて、最後には自分の祖父母の顔が浮かんでくる。
元スレッド:r/AskRedditより
海外の反応
1. 名無しのReddit住民
うちの祖父は貧しすぎて、靴を履かずに学校に通い始めたらしい。冬が近づいてきたとき、校長先生が足が凍らないようにって靴を一足買ってくれたそうだ。その話を、祖父はわりと淡々と語る。
2. 名無しのReddit住民(>>1への返信)
うちの義母は、お金がなくて高校に必要な服や道具が買えないからと言われて、8年生で学校をやめた。それから弟妹の世話をして、綿花を摘んだ。ずっと昔の話みたいに聞こえるけど、ほんの2世代前なんだよね。だから子どもたちには、祖父母がどんな現実を生きていたか必ず伝えるようにしている。
3. 名無しのReddit住民(>>1への返信)
うちの父は99歳。一部屋しかない校舎で勉強していたそうだ。生徒は各自の家庭菜園から分けられる食材を持ち寄って、先生がそれを全部スープ鍋に入れる。それがみんなの昼ごはんだった。スクールバスは坂を上るとエンジンが止まりかけるから、運転手が後ろ向きに坂を上っていたとも言っていた。
4. 名無しのReddit住民
これは質問の趣旨とは少し違うかもしれないけど、数年前にやっと気づいたんだ。お年寄りがあんな歩き方をするのは、僕が思っていたみたいに体が硬いからじゃなくて、ずっと痛みの中にいるからなんだって。少しでも痛みを減らそうとして、引きずるように、すり足で歩いているんだよ。
5. 名無しのReddit住民(>>4への返信)
同じ理由で最近気づいたんだけど、お年寄りがいつも自分の体の不調の話をするのは、誰も「自分が年寄りになった」とは思えないからなんだよね。人は25歳くらいから先、内面はそんなに変わらないって言うじゃない。だから老化の不具合は「おじいちゃんに起こること」であって「自分」に起こることだとは思えない。それなのに次々と体にガタがきて、「これがこの僕に起きてるなんて信じられる?」ってなる。
6. 名無しのReddit住民
12歳のとき、祖父は大恐慌のさなかに小作農の家から逃げ出して、テキサスへ綿花を摘みに行った。その後、十代半ばで北西部の製材所や伐採キャンプで働いた。読み書きはほとんど覚えられなくて、大事な書類はいつも祖母に読んでもらっていたけど、機械にかけては天才だった。うちの子は今9歳。3年後に「父さん、俺は一人前の稼ぎを得に出るよ、心配いらない」なんて言って一人で国を横断しに行く姿は、まったく想像できない。
7. 名無しのReddit住民
子どもが死ぬことが、普通だった。きょうだいが、自分の子が。祖母が、自分の祖母の話をしてくれた。その人は15人産んで、大人まで生き残ったのは6人。あるとき子どもに名前をつけるのをやめてしまって、末っ子はずっと「ブラザー(弟)」と呼ばれていた。学校に上がる年になって、上の子が「学校での名前は何にすればいいの?」と母に聞いたら、母は「ホーレス」と答えた。でも子どもたちは長い通学路の途中で名前を忘れてしまって、先生に問い詰められた上の子は必死に思い出そうとして「チャーリー」と口走った。まあ近いからいいか、ってなったらしい。
8. 名無しのReddit住民(>>7への返信)
ああ、これは本当に悲しい。うちの曽祖母の母にも同じことが起きていた。19人産んで、生き残ったのは6人。古い墓地を歩いていて、小さな墓石がずらりと並んでいて、名前すらなく「ベイビー」と生没の日付だけが刻まれているのを見ると、いつも胸をえぐられる。ワクチンができる前の世界はそうだった。94歳の近所のおじいさんが言うんだ。「今のワクチン反対派は、ジフテリアみたいな病気で子どもが喉を塞がれて息ができずに死ぬのを、一度も見たことがないんだ」って。
※ ジフテリア=細菌感染症で、喉に膜ができて気道を塞ぐ。ワクチン普及前は子どもの主要な死因の一つだった。
9. 名無しのReddit住民(>>7への返信)
ワクチン反対派について腹が立つことは山ほどあるけど、これが一番腹が立つ。あいつらは「生き残った人だけが見える」という生存者バイアスをまるで理解していない。近所の大きな墓地を犬の散歩で歩くと(ちゃんとリードはつけてるよ)、100年前のすり減った墓石に、同じ家族の何人もの子どもの名前が並んでいる。あれは本当に心が痛む。
10. 名無しのReddit住民
洗濯だよ。祖母は「洗濯の日」をちょっとした家事みたいに話すけど、実際はストーブで湯を沸かして、重くて濡れた服を洗濯板でゴシゴシこすって、手で絞る作業。毎週まるまる一日、腰が砕けるような重労働だった。
11. 名無しのReddit住民(>>10への返信)
洗濯機はまぎれもなくフェミニズムの最も重要な道具の一つだったんだよ。何百万人もの女性を、洗濯にとられていた膨大な時間から解放した。そして、その空いた時間がもっと多くの自由を求める運動につながっていった。
12. 名無しのReddit住民(>>10への返信)
70年代、私が小さかった頃の最初の洗濯機は、真ん中に撹拌棒が立った大きな丸い桶みたいなものだった。脱水機能なんてないから、服を一枚ずつローラーに通して水を絞る。乾燥機もなかったから、夏は外の物干しに、冬は地下室に干した。やっとお金を貯めて洗濯機と乾燥機を買えたとき、母は文字どおり泣いていたよ。
13. 名無しのReddit住民
祖母には姉と妹がいた。10代のとき父親に仕事を許されたけど、給料は本人ではなく姉と妹で分けさせられた。姉は「一番上だから身なりを整える必要がある」、妹は「末っ子だから」。祖母は19歳でただ逃げるために結婚し、3年で3人の子を産んだ。看護師になりたかったのに父に反対されて結婚した。それでも医療に近づきたくて、後年は医院の受付から事務長になった。私が19歳で結婚したときは、本気で怒っていた。「ロマンチックね」なんて言わせない、それはいい考えじゃない、絶対やめなさい、って。
14. 名無しのReddit住民(>>13への返信)
前にこんな言葉を聞いて、ずっと心に残っている。「女性は、もう母親のようには生きなくていいと気づいた。けれど男性は、いまだに父親のように生きたいと思っている」。
15. 名無しのReddit住民(>>13への返信)
うちの祖母にも似た話がある。会計がすごく得意で、高校2年で先輩クラスの先生の補助をしていた。父親が稼ぎが良くて大学に進んで会計士になる予定だった。でも3年のとき英語を1科目落とした。4年で登校したら全部家庭科のクラスに入れられていて、「落第したから会計のクラスは取れない」と言われた。落第したことを誰も知らせず、夏期講習で取り戻す機会もなかった。祖母は「勝手にしろ」と言い放ち、祖父に結婚を迫った。後悔はないと言うけど、私はつい想像してしまう。
16. 名無しのReddit住民
うちの家族はニューヨーク州バッファローで育った。製鉄所の隣の、典型的なブルーカラーの工場街だ。両親や叔父叔母は、子どもの頃、暖かい季節に裏庭でミルクとクッキーを食べた思い出をよく語る。でもミルクはすぐに飲まないとダメだった。一分でも置いておくと、表面に薄い煤の膜が張るんだ。製鉄所からの粉塵だよ。窓も同じで、一日おきに拭かないと外が見えなくなった。
17. 名無しのReddit住民(>>16への返信)
だから大気浄化法と環境保護庁ができたんだよ。規制は血で書かれている。そこに住んでいた人たちの肺の状態を想像すると、見るに堪えない。
※ 大気浄化法(Clean Air Act)=1970年に強化された米国の大気汚染規制法。「規制は血で書かれている」は、犠牲の上に規制ができたという英語圏の慣用表現。
18. 名無しのReddit住民(>>16への返信)
うちの家族もサウス・バッファロー出身だ(私自身はそこで育ってないけど)。製鉄所のそばにいたせいで、みんな軽い鉛や重金属の中毒になっているんじゃないかと、ときどき思ってしまう。
19. 名無しのReddit住民
スクールバスも舗装道路も自動車も郊外の宅地もなかった時代、彼らは本当にどんな天気でも何キロも歩いて学校に通うしかなかった。あれは間違いなくつらかったと思う。「昔は雪の中を歩いて学校に行った」って、誇張じゃなくて事実なんだよね。
20. 名無しのReddit住民
夏のノースカロライナ、エアコンなしの30年代。私が生まれた1958年でも、70年代までエアコンはなかった。あの暑さと湿気を、当時はみんな「そういうものだ」と受け入れていた。箱型の窓用扇風機は最高だったし、屋根裏の換気ファンも素晴らしかった。でも今の南部の夏は、エアコンなしでは正直生き延びられない。エアコンって人を幸せにするね。
21. 名無しのReddit住民
洗濯の日。一日中、石炭の火で銅の大釜を沸かして、全部の服を洗うだけの湯を作る。それを「ドリー」でゆっくりかき回し、手ですすぎ、染みは手でこすり、絞り機にかけて水を抜き、最後に干す。祖母は蒸しプディングが嫌いだと言っていた。母親が大釜のついでに蒸しプディングも作っていたから、洗濯の日を思い出すんだって。多いときはその家に14人もいたんだよ。曽祖母がどれだけ働いていたかを思うと、自分が怠け者に思えてくる。
22. 名無しのReddit住民
父の家には冷蔵庫じゃなくて「氷室(アイスボックス)」があった。馬車に乗った男が大きな氷の塊を配達に来て、子どもたちがそれを家まで引きずって、木製の氷室に運び入れる。祖母は働いていたから、これは子どもたちの仕事。みんなで外で遊んでいて氷屋が来たのを逃すと、大目玉だった。1940年代の話だよ。
※ アイスボックス=電気冷蔵庫が普及する前の保冷箱。配達される氷の塊を入れて食品を冷やした。
23. 名無しのReddit住民
椅子や車から立ち上がるのに苦労したり、階段を上るのに難儀したり。昔は「運動不足なんだな」「体を動かすのが嫌いなんだな」とばかり思っていた。でも54歳になった今、わかった。年をとった体は、ただ普通に動くだけで痛むという奇妙なことをするんだ。今朝ソファから立ち上がって「いてっ、腰が今の動きに文句を言ったよ」と言ったら、夫が「俺もそうなるけど、俺の場合はそれを“普通の動き”って呼ぶんだよ」って返してきた。
24. 名無しのReddit住民
15、16歳で年齢を偽って海軍に入ること。誰もちゃんと確認しなかった。一日三食と、まともなベッド。家でそれが得られない子どもにとっては、十分すぎる条件だったんだ。家族を養うために高校前で学校をやめること。10代の娘が妊娠したことを隠して、祖父母がその孫を自分の子として育てること。どれも当時はそんなに珍しくなかった。
25. 名無しのReddit住民
徴兵された友人が海外に送られて、二度と帰ってこないこと。祖母は戦時中の話をよくしてくれた。スウィングダンスがうまくて、軍が主催するダンスでパートナーと披露して、兵士たちと踊った。祖父という相手はいたけれど、故郷で誰かが手紙を書いてあげる必要があるなら、それが自分にできるささやかな手助けだと考えて、何人かの兵士と文通していた。特攻で命を落とした友人の話をするときの感情は、台所のテーブルで60年経っても生々しかった。何度か、すすり泣く祖母を抱きしめた。
26. 名無しのReddit住民(>>25への返信)
うちの叔父は第二次大戦でイタリア戦線の歩兵だった。母は開戦時14歳で、ティーンエイジャーの時期がまるごと戦争だった。当時は「ブルースター」の小さな旗を窓に飾るんだ。家族に出征者がいるという印で、街じゅうほぼ全部の家に下がっていた。ある日、道を歩いていると、ある家の星が青から金に変わっているのに気づく。それは戦死を意味した。新聞は毎日、戦死者リストを載せていた。大都市なら、それは長いリストだった。
※ ブルースター(青い星)の旗は出征者がいる家庭、金の星に変わると戦死を意味する米国の慣習。
27. 名無しのReddit住民
祖父母は1930年代に南部からデトロイトへ、工場で働くために移ってきた。私が生まれた1960年には、両方の祖父はもう工場で吸い込んだ汚染物質が原因の肺の病で亡くなっていた。二人とも50代だった。誰もそれを深く考えなかった。「え、50代まで生きたの? なら大往生じゃないか」って。それが当たり前だったんだ。
28. 名無しのReddit住民
今ではワクチンがある病気だよ。ポリオ、風疹、黄熱病とか。南北戦争時代の、高祖父から曽祖父への手紙が残っているんだけど、どの手紙にも「誰がどの病気で死んだか」という近況欄があるんだ。それが普通の便りだった。
※ ポリオ=小児まひ。手足の麻痺を残す感染症で、ワクチン普及前は世界中で大流行した。
29. 名無しのReddit住民
祖父は「持っている弾には限りがある、最初の一発で仕留められなければその日はタンパク質なし」という暮らしだった義父の話をする。だから義父はライフルの腕がものすごくいい。遊びで鍛えた技術じゃなくて、食べていくための技術なんだよね。
30. 名無しのReddit住民
祖父は「関節炎」のために毎日アスピリンを飲んでいた。でも実際は、骨のがんが背骨を3つも食い破っていたんだ。当時はそれが何なのかすら、誰もわからなかった。痛みは「年のせい」で片づけられて、本当の病名にたどり着く頃にはもう手遅れだった。
まとめ
笑える話と胸が締めつけられる話が、まるで同じ温度で語られているのが印象的だった。洗濯で母が泣いた話、坂を後ろ向きに上るバス、名前を忘れられた末っ子、青から金に変わる星の旗。彼らがそれを「愚痴っぽく」話せるのは、もう過去になったからだ。そして今、私たちが当たり前だと思っているワクチンも洗濯機もエアコンも、誰かが地獄を生き抜いた末に手に入れたものなんだと気づかされる。あなたの祖父母が、ふと淡々と口にする「昔話」は何だろうか。次に聞くときは、少しだけ深く聞いてみたくなった。


コメント
2世代前だと痕跡も見ていないから判らないだろうな。
うちの親は「上の学校に行ったこと」をいまだにきょうだいに悪いって言うよ
兄さんたち、妹たち誰も行かせてもらえなかったのに自分だけ我儘をしたと
実は父親(自分の祖父)も何考えてんだ!って感じで大反対してたけど、担任の先生が家まで来て説得してくれたらしい
ちなみに家は貧乏ではなくて地域でわりと金持ち、土地持ち
ただ家を継いだり分家して土地貰って農家になった男兄弟が当たり前に働いてんのに女のお前が?みたいな価値観だったらしい
叔母たちは先に嫁に行って、それも結構言われたらしい