「これまでで一番、死に近づいた瞬間は?」。海外掲示板のこの質問に、事故や病気からぎりぎりで戻ってきた人たちの体験談が集まった。意識が戻ったら病室の壁に誕生日の横断幕が掛かっていた人、子どもの頃の手術中に蘇生されていたことを、両親に届いた請求で知った人、倒れた木ごと落ちて骨を折ったおかげで感電をまぬがれた人。助かった理由の多くは「あと30センチずれていたら」という偶然で、本人が事の重大さに気づいたのは何年もあと、という話も少なくない。重い話ばかりでもなく、「裸足でレゴを踏んだとき」と答える人もいた。なお、病名や治療についての記述は、それぞれの投稿者の記憶にもとづく個人の体験談である。
元スレッド:r/AskRedditより
海外の反応
1. 名無しのReddit住民
渓谷沿いをハイキングしてて、足を滑らせた。とっさに低木や茂みをつかんで、なんとか自力で体を引き上げたよ。つかめてなかった場合に待ってたのは、約30メートル下の尖った岩場だ。
2. 名無しのReddit住民
二輪車に乗っていて事故に遭った。センターラインをはみ出してきた高齢ドライバーの車に、幹線道路を走るスピードのまま、正面からぶつかられたんだ。本当にひどい事故で、全身の骨を折ったよ。入院は4か月、リハビリは2年。手術は多すぎて、何回受けたのか覚えてない。
事故の直後は、何度か目が開いたんだ。最初に見えたのは路面で、そのまま目を閉じた。次に開けたら救急外来にいて、妻が話しかけてくれてた。冗談のひとつも言おうとしたところで、意識が飛んだ。その次に起きたときは、体じゅうに管がつながってて、頭と首は金属の組み立ておもちゃみたいな器具で固定されてた。また目を閉じた。
次に目が覚めたのは、同じ州の別の地域にある、別の病院。頭はまるで働いてなくて、母が自分の病室を掃除してくれてるんだと思い込んでた。少し話もしたよ。母は何年も前に亡くなってるから、会えたのは嬉しかった。ただ、いまだにモップがけをさせてるのは悪いなと思った。
妻もそこにいた。眠れてないみたいな、ひどい顔をしてたから、もう家に帰るように言ったんだ。「起きたら電話するよ!」って。妻の返事は「あなた、6日間眠ってたのよ」。壁には「ハッピーバースデー」の横断幕が掛かってた。その日は自分の誕生日だったんだ。最低な誕生日の過ごし方だよ。
※ 「金属の組み立ておもちゃ」は、原文では米国の玩具「エレクター・セット」。穴のあいた金属の板や棒をボルトでつないで、模型を組み立てて遊ぶ。
3. 名無しのReddit住民(>>2への返信)
亡くなったお母さんに会えて最初に思うことが「まだモップがけをさせて悪いな」なの、人柄が出すぎてる。奥さんが眠れてない顔をしてたのも当然だよ。6日間、気が気じゃなかっただろうから。4. 名無しのReddit住民(>>2への返信)
誕生日つながりで言うと、自分は11歳か12歳の誕生日に溺れかけた。お互い、ケーキどころじゃない誕生日だったね。
5. 名無しのReddit住民
裸足でレゴを3個踏んづけたとき。冗談抜きで、お迎えの光が見えた気がしたよ。
6. 名無しのReddit住民
錠剤を喉に詰まらせた。飲み込もうとした瞬間に喉の奥へ滑り込んで、気道がいきなり溶接されたみたいにふさがったんだ。しかもちょうど電話の最中でね。相手には何も聞こえてない。ひと声出せば助けを呼べるのに、そのひと声が出なかった。
ああいうとき、頭は動物の生存モードに切り替わる。怖いというより、呆然とする感じに近い。いま思えば、自分で自分にハイムリック法をやるとか、人目のある外へ飛び出すとか、どこかの部屋のドアを叩くとか、やれることはあった。なのに実際は、異変に気づきようのない相手と電話をつないだまま、アパートの部屋にひとりでいたんだ。そういう考えが浮かばないんだよ。何でもない一日の真ん中で、いきなり生きるか死ぬかの場面になる。
錠剤は取れなかった。力が抜けてきて、四つんばいになったのは覚えてる。そこで吐いたんだ(食べ物の通り道のほうは無事だったからね)。吐いてるうちに錠剤が外れて、嘘みたいに元どおりになった。当時の彼女に一部始終を話したときは、それほど動揺してなかった。あとから思い返す時間ができて、じわじわ怖くなってきたんだ。
ほかの人の話と比べたら、喉に詰まらせるなんて地味に聞こえるだろうけど、あれは現実感のない、とんでもない体験だったよ。
※ ハイムリック法は、喉に物を詰まらせた人のおなか(へその少し上)を突き上げて、吐き出させる応急手当。椅子の背などにおなかを押し当てて、ひとりで行う方法もある。
7. 名無しのReddit住民(>>6への返信)
読んでるだけで喉が苦しくなってきた。声が出ないなら、ドアでも壁でも叩いて音を出す。これだけは覚えて帰るよ。その場では平気で、あとから怖くなるっていうのもすごく分かる。
8. 名無しのReddit住民
子どもの頃、脳の手術を受けた。その最中に、どうやら蘇生処置が必要になってたらしい。うちの家族がそれを知ったのは、その分の料金が両親に請求されたからなんだ。もちろん自分では何も覚えてないけど、厳密に言えば、一度死んだことになるんだろうね。
※ 米国など、医療費が処置ごとに請求される国では、蘇生処置も請求の1項目になる。
9. 名無しのReddit住民(>>8への返信)
「蘇生しました」の報告が、口頭じゃなくて請求書の1行で届いたわけか。ご両親、その明細を二度見しただろうね。
10. 名無しのReddit住民
犬歯にひびが入ったまま、2年くらい放っておいた。痛みはまったくなかったんだ……運転中に意識を失うまではね。同乗してた子どもがハンドルをつかんで、奇跡的に車を駐車場まで入れてくれた。気がついたら救急車が来てたけど、そのときは何の異常も見つからなかった。翌日、左半身がまるごとしびれてきた。自分で運転して病院へ行って、ロビーに入ったところでまた倒れたよ。
結局、割れた歯がもとで敗血症になってて、それが軽い脳卒中まで引き起こしてたんだ。歯を抜いたその瞬間から、何もかもが一気に良くなった。医者には「この歯で死んでいてもおかしくなかった」と言われたよ。歯の感染を放っておいて亡くなる人は、思ってるよりずっと多いらしい。みんな、歯医者に行ってくれ。
※ 敗血症は、細菌などの感染をきっかけに全身の臓器の働きが落ちていく状態で、命に関わる。
11. 名無しのReddit住民
ある女性に「赤ちゃんの予定日はいつですか?」と聞いたとき。
その人は、妊娠してなかった。
12. 名無しのReddit住民
かなり背の高い脚立に乗って、ケーブルを通すための穴を屋根の垂木に開けてたんだ。長いビットを付けたドリルが木の節に引っかかった途端、ドリルの本体のほうが振り回されて、野球のバットみたいにあごを直撃。そのまま脚立から吹っ飛ばされた。
落ちた先が、たまたま自分で持ち込んだケーブルの箱の上だった。頭はヘルメットごとコンクリートの床で跳ねたよ。信じられないくらい運がよかった。どっちかに30センチずれてたら、体が動かなくなるか、死ぬかしてたと思う。
13. 名無しのReddit住民(>>12への返信)
はしごの話なら自分にもある。上に乗って作業してたら、パレットを動かしてた見習いが、それをはしごにぶつけたんだ。とっさに近くのパイプにつかまって助かった。あれが溶接したての熱いパイプじゃなくて、本当によかったよ。
14. 名無しのReddit住民
小さい頃、ひどいぜんそくの発作を起こして、酸素テントの中で何週間も入院した。いま思うと、ぜんそくだけじゃなかった気もするんだけどね。
4歳くらいだったから、記憶はぼんやりしてる。入院するまでのことは覚えてないのに、あの部屋のことは覚えてるんだ。ベッドから動けなくて、ひたすら眠ってた。看護師さんのひとりが、ひもの付いた小さなおもちゃのトラックをよく持ってきてくれて、それを引っぱりながら部屋の中を歩かせてくれた。部屋は密閉されてた(酸素を普通より濃くしてあったからだと、あとになって知った)。
父が病室の窓の外に座って、変な顔をして見せてくれてたのも覚えてる。親が中に入れるのは、ほんの短い時間だけだった。それから、余命の限られた子どもたちにプレゼントやおもちゃを届けて回る、メイク・ア・ウィッシュみたいな団体があってね。名前はもう思い出せないけど、その人たちが自分にケアベアをくれたんだ。
つまり、自分はそこまで死に近かったってこと。入院2日目の夜に、余命わずかな子どものための慈善団体が、自分に贈り物を持ってきたんだから。その意味に気づいたのは、あとになってからだよ。母にその話をしたら、やっぱり見通しは相当厳しかったらしい。思いつく手を片っぱしから試して、どれかが効いてくれと祈るしかない段階だったそうだ。
※ メイク・ア・ウィッシュは、難病と闘う子どもの願いをかなえる活動をしている国際的な団体。ケアベアは、おなかにマークの付いたカラフルなクマのキャラクターで、1980年代に米国で生まれた。
15. 名無しのReddit住民
熱中症。7月の暑い真昼、運転中にめまいがして体がぴりぴりしてきたから、車を停めて外に出たんだ。そこからは、知らない住宅街を文字どおりさまよってた。財布も靴も携帯もどこかに落として、意識はもうろう、ありもしないことを信じ込んでる状態だった。倒れる前の最後の記憶は、ピクニックの最中だった家にたどり着いて、電話を借りようとドアを叩いたこと。
たぶん、そこにいた誰かに背中を蹴られて倒されたんだと思う。でもそのあと、肩に手が置かれて「大丈夫だぞ、俺たちがついてるからな」と言われたのを覚えてる。そこで意識が切れた。
目が覚めたら病院だった。催涙スプレーを浴びせられてて、両手は縛られてて、腕には点滴がつながってた。
何がどうなってそうなったのか、頭の中で整理がつくまでしばらくかかったよ。
16. 名無しのReddit住民(>>15への返信)
助けを求めてドアを叩いたら、蹴りと催涙スプレーと点滴がまとめて返ってきたのか。靴も履かずにふらふら近づいてきた知らない人だから、不審者だと思われたんだろうね。それでも「俺たちがついてる」と声をかけてくれた人がいたのが救いだよ。
17. 名無しのReddit住民
子どもの頃、農場で事故に遭った。10歳か11歳だったと思う。いかにも農業用って感じのトラクターの、後ろに付いてるあの巨大なタイヤにひかれたんだ。運がよかったのは、季節柄と直前の雨のせいで、地面がいつになく柔らかかったこと。ひどいあざはできたけど、それだけで済んだよ。
18. 名無しのReddit住民
友達の家で、そいつの妹たちのためにツリーハウスを作ってた。ところがその木、思ってたほど丈夫じゃなかったらしくて、倒れたんだ。
自分は友達の家のプールまであと1メートルほどのところ、すぐ横の石敷きの通路に落ちて、腕と鎖骨を折った。……でも、それで助かったんだよ。倒れていく木が電線を引っかけて、一緒にプールの中へ引きずり込んでたから。電気が流れたままの電線が浸かってるプールに落ちてたら、無事では済まなかったと思う。
19. 名無しのReddit住民(>>18への返信)
電線の話はぞっとする。自分は見習いの頃、3万3000ボルトの配電線に、あと少しで触れるところまで近づいたことがあるんだ。骨折で済んだのは、本当に運がいいよ。
20. 名無しのReddit住民
いちばん記憶に残ってるのは、5歳のときの出来事。プールに浮かべてあった、空気でふくらませて上で跳ねて遊ぶ大きな遊具があってね。その下を泳いでくぐってみなよ、ときょうだいにけしかけられたんだ。ちゃんと見てくれてる人は誰もいなかったから、そのままもぐった。途中で疲れて、息を吸おうと水面に出ようとしたんだけど、頭の上は100キロはありそうなビニールの塊で、その上では子どもたちが跳ねてる。息なんて吸えない。
パニックになりかけたのは覚えてる。ところが突然、妙に落ち着いた気分になって、「泳ぎつづけろ」という指示が聞こえたんだ。だから泳ぎつづけた。肺が破裂しそうになりながら反対側にたどり着いたときは、水を吸い込む寸前だった。というか実際に少し吸い込んでて、向こう側のロープをつかんで、げほげほ水を吐き出した。肺が焼けるようだったよ。
みんな、子どもからは目を離さないで。子どもは本当にあっという間に溺れるから。
このことは母には一度も話してない。でも、あのとき聞こえた声は自分の守護天使だったんじゃないか、という変な感覚がずっとあるんだ。ばかげて聞こえるだろうけど、スイッチを切ったみたいに恐怖が消えて、泳ぎつづけろと言われたあの瞬間は、いまでもはっきり覚えてる。思い出すと、ちょっと気味が悪い。
21. 名無しのReddit住民
溺れかけたのは2歳か3歳のとき。湖の浅いところで遊んでたら急に深くなって、沈んだ拍子に、くまのプーさんの浮き輪が体から離れてしまったんだ。助けてくれたのは両親の友達の女性。しかもその人、流されていった浮き輪を取りに、湖の向こう岸まで泳いでいってくれたんだよ。
22. 名無しのReddit住民
妊娠高血圧腎症。赤ちゃんはもう生まれたあとだったのに、血圧は上が220、下が110。目の前に星がちらついて、薬の点滴はすでに入ってて、足には血栓を防ぐためのポンプがつながれてた。
家族は最初、また大げさに騒いでると呆れ顔だったのに、私が本当に死にかけてると分かった途端、泣き崩れた。そのあいだじゅう、赤ちゃんは泣き叫んでた。けいれんを起こすかもしれないからと、私は抱っこを止められてたんだ。
そこへ看護師さんが来て、乳首を付けるだけで飲ませられる液体ミルクを出すと言ってくれて、家族を呼んで助けてもらうように私たちに勧めてくれた。そもそも私たちは3日前、予定日まであと3週間の、ごく普通の健診に来ただけだったんだよ。着の身着のままで。電話をしたら、6時間後には家族が生後3日の娘を迎えに来てくれた。あれで間違いなく命を救われた。何日かぶりに、やっと眠れたから。
そこからは、心臓や腎臓の数値が悪くなっていくのを看護師さんが記録しに来るとき以外、目を覚ませなかった。それでも薬がだんだん効いて、流れが変わったんだ。
いまでは友達に、こんな冗談を言ってる。みんなは産後の体重を戻すのに2年かかったけど、私は7日で落ちたよ、って。あの1週間で約14キロ減ったからね……。
※ 妊娠高血圧腎症は、妊娠中から産後にかけて血圧が急に上がる病気。重くなると、けいれん発作を起こしたり、命に関わったりすることがある。
23. 名無しのReddit住民
彼女の兄弟の、そのまた彼女の21歳の誕生日パーティーで、急性アルコール中毒になった。空きっ腹のまま、2時間でショットを20杯くらい飲んだんだ。
会場の外の道ばたにいたら、彼女が出てきた。「吐けなかったら、たぶん死ぬ」と説明したら、水のボトルを1本渡して、「何かあったら言ってね」とだけ言って、またパーティーに戻っていったよ。
そこで神様に誓ったんだ。もし生きて帰してくれたら、このどうしようもない女ときっぱり別れます、って(1年半のあいだに23回別れてた。完全に泥沼)。
10分間ひたすら集中して、やっと吐けた。身なりを整えて、その場をあとにした。
1週間後、彼女と別れたよ。
※ 英語圏では、21歳の誕生日を節目として盛大に祝う習慣がある。米国では、飲酒が認められる年齢でもある。
24. 名無しのReddit住民
真夜中に、ニューハンプシャー州のホワイト山地のくねくね道を、ひとりでバイクで走ってた。当時はGPSナビを、地図を拡大したまま、風防の真ん中の高い位置に付けてたんだ。乗ってたのは背の高いBMWのバイクで、前を向いたまま地図が目に入る。走り慣れた道だったから、画面に出る道の形は信用していいと分かってた。
音楽は大音量。うっそうとした緑の森が迫る中、光のトンネルを、出しすぎのスピードで走っていく。先の見えないカーブは、ナビを信じて曲がる。闇の中を飛んでるみたいだった。世界にあるのは音楽と、動いてる感覚と、目の前の暗闇にあいた穴へ飛び込んでいくことだけ。この世のものじゃない気分だったよ。
そのスピードのまま、ゆるい下りの右カーブ、先の見えない上りの左、頂上を越えてまたゆるい下りの右……というところで、右からムースが現れた。こっちの横っ腹へまっすぐ突っ込んでくる向きで。
ちょうど道が長い左カーブに入るところだったから、ムースは自分の右肩のすぐ横を、ほんの少しのあいだ並んで走る形になった。手を伸ばせば頭に触れたと思う。それから、お互い別々の闇の中へ消えていった。
バイク、スキー、マウンテンバイクと、危ない目には何度も遭ってきたけど、あれがいちばんのお気に入りだ。
※ ムース(ヘラジカ)は、オスの体重が500キロを超えることもある世界最大のシカ。北米では、車やバイクとぶつかると重大な事故になる動物として知られる。ホワイト山地は、米国北東部ニューハンプシャー州の山岳地帯。
25. 名無しのReddit住民
15歳のとき、盲腸が破裂した。入院は13日間。おなかの中を洗う大がかりな手術になったうえに、そのあと腸がなかなか動き出してくれなくて、体に管をつないだまま寝てるしかなかった。
しかも場所はヨーロッパ。自分はカナダ人で、学校の交換留学で来てたんだ。両親はパスポートを持ってなかったから、駆けつけることができなかった。その代わりに、地元の学校の校長先生が、毎日お見舞いに来てくれたよ。
26. 名無しのReddit住民
沖に流されて、海の上で10時間生き延びたことがある(遊泳禁止の場所だった。自分がばかだったんだ)。
2歳半のときには、5メートルの高さからコンクリートに頭から落ちた。それでも脳しんとうだけで済んだよ(妻の意見は違うみたいだけど、自分では後遺症ゼロだと思ってる)。
あと、酔っぱらって夜中にアウトバーンを横切ったこともある。
※ アウトバーンは、ドイツなどの高速道路。速度無制限の区間があることで知られる。
27. 名無しのReddit住民(>>26への返信)
海で10時間漂って、5メートルの高さから頭から落ちて、アウトバーンまで横切って、それでも「後遺症ゼロ」と言い切れるのがすごい。申し訳ないけど、自分は奥さんの見立てのほうに一票入れるよ。
28. 名無しのReddit住民
2000年になって1分くらいたった頃の話。自分は11歳で、外に立って、次々に上がる花火を眺めてた。港の船がいっせいに汽笛を鳴らしてて、みんなは歓声を上げたり、酔っぱらって歌ったりしてたよ。
そのとき、すぐ横でものすごい音がした。距離にして20センチくらい。大きな花火の残骸が、真っ赤に焼けた金属の棒を中に入れたまま、自分のすぐ隣の地面に突っ込んできたんだ。母がすぐに自分をつかんで引き寄せて、無事かどうか確かめてた。当の本人は何が起きたのか分かってなくて、花火のほうに夢中だったけどね(笑)。
29. 名無しのReddit住民
雪の積もったコロラド州の峠道を下ってるとき、車のコントロールを失った。ガードレールがなくて、片側は30〜60メートルの急な崖になってる区間でね。滑っていく方向にハンドルを切って、アクセルを踏んで、なんとか抜け出せた。あれは怖かったよ。
同乗者と自分が生きて帰れたのは、北東部で育った頃、冬の嵐が来るたびに雪の上でドリフトやドーナツターンをしてたおかげだと本気で思ってる。滑る車をどう操るかは、あれで覚えたんだ。
※ ドーナツターンは、車をその場で円を描くように滑らせて回す運転のこと。
30. 名無しのReddit住民
12歳のとき、肺炎で熱が約41℃(華氏106度)まで上がった。それから去年、抗がん剤治療で2回死にかけた。がんなんか、くそくらえだ。いまは前よりずっと元気にやってるよ。
まとめ
並べてみると、生死を分けたのはほとんどが偶然だった。どちらかに30センチずれていたら無事では済まなかったという脚立からの転落、20センチ横に落ちてきた花火の残骸、雨で地面が柔らかかったおかげであざで済んだトラクターの事故。倒れた木と一緒に落ちて腕と鎖骨を折った人は、落ちた先がプールでなかったから感電をまぬがれている。本人の判断や体力より、「たまたまそこにケーブルの箱があった」という巡り合わせの話が多い。
もうひとつ目につくのは、当人がその場では意外なほど怖がっていないことだ。錠剤を喉に詰まらせた人は「怖いというより、呆然とする感じに近い」と書き、怖くなったのは助かったあとだった。プールの遊具の下で息ができなくなった人は、突然落ち着いて泳ぎつづけたという。4歳くらいで入院した人は、もらった贈り物の意味にあとになって気づき、手術中に蘇生されていた人は、その事実を両親への請求で知った。死にかけたことを、本人がいちばん後から知る。そういう話がいくつも並んでいる。
そして記憶に残っているのは、妙に細かい場面ばかりだ。病室の壁の横断幕、亡くなった母親のモップ、ひもの付いたおもちゃのトラック、流されていったくまのプーさんの浮き輪、毎日見舞いに来てくれた校長先生。体験者が残した助言も、地味で具体的だった。歯医者に行くこと、子どもから目を離さないこと。喉が詰まって声が出ないときにドアを叩けばよかった、という後悔も、覚えておいて損はない。なお、ここに挙がった病状や経過は投稿者個人の記憶によるもので、気になる症状があるときは医療機関に相談してほしい。皆さんには、「あのときは本当に危なかった」と今でも思い出す瞬間がありますか?

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